(2011年7月16・17日 3人泊 @10,000円)
とにかく…
福島の宿に行ってあげなくちゃ! 福島の宿に!
震災と原発事故、そして風評被害の福島に!福島に!
まちこが「温泉行きたい」
おねえさまが「そろそろお願いね」
以前だったら私は、一緒に連れていく人が好みそうな宿を選択したけれど、
そういうことはこの際無視。
それじゃ、まとめて連れてくか~
福島駅前は暑く、バスを待つ間も日差しがジリジリとする。
土曜とはいえバスに乗る人は僅かで、この3連休の福島への観光客が少ないのが気になる。
牧草地には乾草のロールが見えたが、
先日来の稲藁の放射線値の騒ぎで、
福島だけでなく酪農や牧畜に従事する人々に一段と大きな衝撃が走った。
そして、みな風評に惑わされない冷静な消費者でありたいと願っているはずだが、
国の基準さえ定かでない現状では、特に幼い子供を抱えた親たちの不安と心配は果てしなく広がっていく。
空気、水、野菜や果物、そして肉、米…
もう冗談事ではなく、本州の関東以北では 「一家に1台ガイガーカウンター」 になりつつある。
夕方のNHKのニュースでは毎日<本日の放射線値>をお知らせするが、
「…で変化ありません」というのに慣れてしまった頃、突然とんでもない値になってみな蒼くなる日がくるのかもしれない。
これは<想定外>の事態なのだろうか…
賢明な人は、このまま福島原発事故の収束がままならないことを<想定>して、 「一家に人数分のガスマスク」 を準備してるのかもね。
バスは土湯で、あちこち工事している向瀧旅館の前を通った。
向瀧は震災後休業している。
新野地の相模屋の前でバスを降り、少し先の道を下っていく。
日差しが強く、蝉の声が響き、いつもと変わらぬ夏の情景なのだ。たぶん。
遠く山の緑がこんもりと豊かに、
木陰は吹く風が爽やか、眩しい光に満ちて、穏やかな夏の午後の風景が目の前に広がった。
坂を下りると、看板をはじめとしてしろうと風手作り感にあふれた、ちょっと微笑ましい宿が見えてきた。
駐車している車も数台ありいくぶん客がいるのがわかって、ああ、よかった!
玄関から右手のほうは湯治の部屋のようである。
入り口で名前を告げると、女性のスタッフが私たちの靴を持って先に立ち、廊下を通り階段を上がり、
つまり隣の新館の1階に行き、玄関に靴を入れてから部屋に案内してくれた。
新館は和式のトイレが付いている部屋である。
一番奥の<青森>というお部屋。
廊下の窓の外には、源泉のパイプが通っているのが見える。
内湯に向かっているので、2本ある源泉の1本、赤湯らしい。
部屋にクーラーはなかったが、ドアを開けておくと涼しい風が通り、
東京では感じられないその風の爽やかさに、身も心も溶けていくようであった。
トイレの電球が切れてしまい真っ暗、
来て早々脚立を持ってきた仲居さんが電球を変える羽目となり、
菓子は2人分、うちわも2本しかおいていなかったが、そんな瑣末なことはどうでもよく、
風が通るたびに思わず歓喜の声があがってしまう。
風がご馳走… 空気がご馳走!
男女別の露天に。
道が二股に分かれていて、右の道が女湯への道。
今度の震災でも、この露天は無事だったらしい。
修理の必要があったのかもしれないが、現状お湯も湯小屋も問題はないようだった。
上がり湯は透明。そして熱い。
お湯の温度が高いうえに日に照らされて、露天は入るのをためらわれるくらいの温度になっていたので、
水道の蛇口を目いっぱい開けて水を入れる。
細かい粘土質の湯の花が下から巻き上がる。
熱いのを我慢して入ってしまえばこっちのもの!
弱い酸性の、刺激のない、しかし濃いお湯で、水でほどよくうまり、
東京の暑さと湿気と仕事に疲れた体に、じんわりとしみて心地よかった。
山の中腹にあるので風が通り過ぎてゆき、湯船から体を出していると
その風の塊が肌を滑っていくひとときが、やけに貴重に感じられるのだった。
ただしそんな感慨を抱けるのも、この宿が震災を乗り越えた今ここに存在しているからで、
まかり間違えば私だけでなく誰しもが、そんな幸せなひと時を感じることができなかったかもしれないのだ。
実際あの震災によってどれほど多くの宿が被害を受けたり、様々な事情で廃業を余儀なくされたことだろう。
入れるお湯がそこにあり… お湯に入れる自分がいる。
感謝せずにいられないことである。
この宿のパグ。
「なんて名前?」と尋ねたら、たしか…
「コウタロウ」と言ったか?
好山荘だから好太郎?
それとも安達太良山だから光太郎?
どっちかね~ 歩いているのを見かけたのはこの時だけ。
暑いからね~
あとはいつでも廊下で寝てましたね~
1階の内湯に。
男女別の入り口。
脱衣所。
ここもかなり修理したらしい。
震災で、大きいほうの内湯が
「亀の甲羅のようにひび割れて壊れてしまった」とのこと。
湯小屋ごと全面リニューアルして建て替えたらしい。
写真で見た風呂の面影はないけれど、明るく、そして大きく開放的な風呂場になっていた。
このお湯の温度も高く、常時加水されている。
大きく取られた窓を開けると、外の木々の緑がよく見えて風も抜け、
換気扇の音もせず、たっぷりとしたお湯を楽しめる。
ずーっとね~
こうやってますね~
撫でても無反応ね。
夕方、日帰りの客、そして子供たちの姿が見え声が聞こえ、外は賑わいを増した。
当たり前の夏休みの始まり…
今年もまた、そうなるはずであった。
だから少しでも<当たり前>に近づいていってほしい。
夕暮れの青空をバックに、トンボの大群が飛び交っていた。
なんてたくさん飛んでいるんだろう… そしてなんでこんなにたくさん飛んでいるんだろう…
夕食はお膳を部屋に運んでくれる。
いかにも湯治宿、というお膳だったので、私は正直嬉しい。
トイレ付きの新館だからと、半端な<旅館のお料理>なんぞが出てこないでほしい、と思っていたので。
岩魚は塩焼きでなくから揚げ風にしてあった。
塩焼きはいささか飽きていたので、これもたいへん結構である。
それぞれちょうどいい分量。
市販のもののあるけれど、おそらくここで作られただろう梅の煮物。
とんでもなくおいしいカボチャの煮物。
頑張って硬い牛肉なんかじゃなくて、
ほどよくふつーの豚肉。
お米もおいしくちゃんといただき、おいしかった!ごちそうさま!
夜、1人で露天に行った。
しばらく水道を出して適温に。
だれも来る気配がなかったのでどんどんうめて、ちょー適温、
つまりそうとうぬるめで心地よい状態にして長風呂。
こんなに濃いんだし、それに水を止めればまたあっという間に熱くなる。
縁に突っ伏し型でユラユラしていたら…
脇の茂みのあたりで黄緑色のLEDのようなごく小さな明かりがポツッとともった。
あら?
直線的な短い横移動を何回か繰り返し、そのときやっとホタルだと分かった。
ゲンジボタルのような動きではなく光もかすかだったから、きっとヘイケボタルだったんだろう。
密やかに音もなく、しばらくソロの舞踏が続いた。
やがて唐突に消え、私はその後の闇を見つめた。
硬質な短い舞踏…
布団に横たわりながら、亡くなった多くの人々への、まるで鎮魂の舞踏のようであったと、
そんなことを考えながら眠りについた。
朝、昨夜ホタルが見えたあたりを見てみると…
紫陽花が咲いていた。
東京の紫陽花は半分花が咲いたところで暑さのために立ち枯れになってしまっていたが。
まだまだこれから咲くのだろう、蕾がみずみずしい。
アヤメの種類もこれから咲くようで、山の草花は都会とは全然違うことを再認識した。
宿はまだあちこち修理の最中である。
昨日から壊れた階段のコンクリートの補強を進めていた。
客足はまだ戻っていないという。
相変わらずじーっとしていました。
内湯に行ったら、中からおじさんたちが出てきてびっくりした。
「いや~ だれもいないからさ、入らせてもらったんだよ。だって男湯狭いんだ、見てごらんよ」
男湯をのぞいてみたら、確かに!これは2人入ればいっぱいか。
その奥の露天も小さい。かわいそー!
おじさんたちは女湯からゾロゾロ5人出てきた。
私を見て「年寄りだからさ、大丈夫だよ」と言いながら。
わたしゃ気にしないが、「年寄りだから大丈夫」って何??
豊富なお湯とときどき吹きぬける風。
日帰りの登山帰りの女性が上がってしまうと、大きな風呂は独り占めとなった。
かなり塩化物泉系のお湯の感じがあり、確かにこれは長時間入るとのぼせるかも。
しかし熱いけれどさっぱりとしたお湯で、鉄の匂いのする新しい風呂場は日差しに溢れ、
新たな歴史を刻もうとしていた。
私は記念に、タオルを染色して帰ることにした。
日本人それぞれが、どこかで運命が変わってしまったこの夏の思い出に。
布団は敷きっぱなしだったので、食事は別の部屋を用意してくれて、
すでにお膳があった。
そんな配慮も嬉しい。
献立もすべて変えてくれた。市販の焼き鳥やら玉子豆腐やらでもどこか気遣いが伺え、
手作りでないことなど私は全然気にならない。
本日もおいしくいただいた。
夜、またぬるくして涼しい風に吹かれ、露天でいい時間を過ごした。
十五夜は、じゅうごや 十六夜は、いざよい 十七夜は… なんていうんでしょか~
あ~ なんかあったんじゃないだろか~ 教養ないから思いださんわね。
月齢は十七夜くらいか…
月が出ていたのにホタルが舞うのは、珍しいのかもね。
今日は姿は見えなかった。
体がまだ目ざめていない朝、露天にしばらくつかっていた。
ボーットした頭がゆるゆるとほどけ、意識が次第に目覚め、それに体が追いついていく頃、
湯治棟に泊まっているという女性が。
茨城の方で、東北ほどではなかったが自宅は被災されたという。
「行けるときに、夫婦でできるだけたくさん温泉に行っておきたい」とおっしゃった。
そう、明日の運命はだれにも分からないのだから。
放射能値を測ってはじめて、その値に驚くわけで、
測らないでいたなら何も考えず当たり前に口にするのである。
世界中の海には、50万トンを超える放射線廃棄物のドラム缶がゴロゴロしているのであって、
それらの大部分は劣化が進んで相当量は海中に流れ出しているのだ。
世界中でそんなことをつい最近まで許していたツケは、私たちの子孫にどのように影響するのだろう。
日本国内で魚介類の放射線値を測りだしたのは福島原発の事故が起こったからであり、
それ以前に近海のイワシやサバ、輸入される大量の海老、鮭、缶詰のオイルサーディンやら蟹、アサリや蛤、そんなものの放射線量を、かつて測定したことがあっただろうか…
知らなければ、当たり前に安心だという前提で、私たちは平気で食べている。
宿から土湯のバス停まで車を運転して送ってくれたのは、飯館村に住み福島原発の第三号機で働いていたという男性だった。
宿と何かの縁がある方なのか避難してきたのかは聞かなかったが。
短い時間であったが、いま故郷に帰れないこの方の話されることは、会話に暗さがない分、私には一段と重いものに感じられた。
私たちは未来の子孫たちに、何を残し何を託すのだろう。
放射能におびえる日々と、オゾンホールと、荒廃した森と大地と、荒れ狂った水を止めるすべのない劣化したコンクリートの塊の山か。
<想定外>は常に起こる。
想定するのは人間だから。
想定の基準をどれだけ引き上げても。
なぜなら私たち人間は、100%完璧な想定などできない。
この茶色く染めたタオルは、
私が2011年3月11日を忘れないために、
そして東北の復興を願う時、微力な私に何ができるかを、考えるよすがとなるはずだ。
powered by Quick Homepage Maker 4.15
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM