(2009年9月20・21日 2人泊 素泊まり@6,000円)
8月の朝仕事に行くときに、池袋の駅に入るところで足が上がらなかったようで、
段につまづいて膝をしたたかに打った。
すぐに湿布して痛みと腫れはひいたが、膝の屈伸時に痛みの手前のような嫌な感じがずっと残り、
温泉に行くたびにさすったりしていたのだが…
ちょっと、この膝、何とかしたい。
そして鹿児島土産の痒みもまたぶり返し、痕が黒ずんで消えないのも何とかしたい…
連休中に草津に湯治かな~
そんなことを考えていたら、本当に久しぶりに事務所でまちことバッタリ。
ちょっと患っていた彼女に
「久しぶりだね~ 元気になった?」
「うん、もう元気。だけどいま膝が心配なの」 おまけに五十肩だという。
彼女に「連休中に草津に湯治に行く?」とメールしたのは、そんないきさつから。 「もちろん、行く!」
しかしシルバーウイークと称される大型連休、いつもは出歩かずじっと過ぎ去るのを待っている私は、
大型連休の交通事情とETC1,000円効果を全然把握していなかったのだ。
列車は満席、なんとかギリギリセーフで軽井沢までの新幹線が取れたけど。
大宮駅も軽井沢駅も人であふれ返り、軽井沢からの草津行きバスもかなり人が乗り、そして草津温泉に近づくにしたがって車の大渋滞となり、急ぐ旅ではないがバスが30分遅れで草津温泉のターミナルに着いた時はいささかほっとしたのだった。
湯畑付近も車と人で混雑、少し歩いて西の河原通り、極楽館の斜め前。
「するがや」と書かれた土産物店のはしに、宿の出入り口がある。
旅館のフロント、ではなく一般の家庭の玄関の風情。
土産物店からやってきた女性に案内されて…
2階への階段を上り…
今回6畳、3畳の次の間、トイレ付きのお部屋。
ティーバッグの緑茶、お茶セット、お湯のポットを持ってきてくれて記帳。
本日分@6,000円を前払いする。
部屋の中にも温泉臭が漂う。空気も温泉の草津。
ちゃんと映るテレビ、まだ炬燵はないので「寒かったらつけてください」というストーブ、タオル類と浴衣、
歯ブラシあり。
ふつーに掃除されていて、なにより破れていない真っ白な障子が気持ちよい。
3畳の部屋の窓の眺めはいいわけではないが、遠くに山が望め、それに今回窓からの景色はどうでもいいのである。
新しいウォシュレットのトイレ。
部屋に洗面所はないので、廊下の洗面台使用。
反対側にも違う階段がある。
当初地蔵の湯に入りたかった私は、まず高砂館に電話したのだ。
「すみません、連休中は満室で…」
それでは、綿の湯に。
なぜこの宿を選んだかといえば、この宿は2カ所の風呂場があり、綿の湯と湯畑の湯を引いているのである。
しかしここは宿泊2名以上の食事なし簡易宿泊施設で、いままで私1人では泊まれなかった。
今回連休中で宿はどこもいっぱいでも、ここは食事の楽しみや景観を求める人は泊まらない宿であるから満室ではなかろう、と考えたのである。
案の定、あいていた。
風呂は札をかけて貸し切りとして使用。
草津の湯に30分も入る人間はいないから、使用中でも少し待てば使えるようになる。
脱衣所。足ふきマットはこまめに取り替えてくれていた。
綿の湯…
お久しぶりです。今回、湯治にまいりました。
よろしくお願いいたします。
入りやすい温度だったので、かけ湯してから躊躇うことなくスルッと首まで浸かれた。
そして次の瞬間…
「ああ… 草津のお湯だ… 」
「これが草津のお湯だ」とはっきり分かる、強いけれど何か全身を包んでくれる独特のものを感じる。
それはお湯の温度がぬるいときよりもある程度以上に高いときのほうが顕著で、熱さを我慢しながら首まで入った瞬間の後にくる皮膚の上を被う膜の感覚は、草津のお湯独特のものであるような気がする。
フラフラと気ままにいろいろなお湯に入り、そしてそんな私にこのお湯は「お帰り」と言ってくれるのである。
温泉のことは詳しくないけれど、そして他にもあるのかもしれないが、
私は草津と同じ感じを得るお湯を他に知らない。
綿の湯も、草津ホテル別館「綿の湯」ができて一躍有名になった。
「ペンション リシュモン」も「ペンション はぎわら」もこの「駿河屋」も話題にならないけれど。
これらの宿以外にも綿の湯を引いている宿は3軒ほどあるようである。
私はとりわけ綿の湯の、このまろやかでインティメイトな感じが好きである。
お湯の中で痛んだ膝のお皿と、掻きむしった皮膚をマッサージ。まちこも五十肩をマッサージ。
「治してくださいね~」
ここの湯気抜きは換気扇がないのに、風呂場のガラス戸の下の通気の小窓から風が通り、上の窓と高い天井に抜けてとてもうまくいっているのだ。
あっら~ 山本館の隣の土産物屋がセブン-イレブンになっていた。
ホント、笑っちゃうくらい景観を気にしないところである、草津は。
年代物でどんなにいい建物の近辺にでも、平気で大型ホテルやら大型旅館を建てる。
老舗旅館も文句言わない土地柄なんでしょうね~
それと同時に、ここはけして表には出ないけれど、他の温泉地と違う複雑な歴史を持つ土地である。
1197年、源頼朝が浅間山で鷹狩りをした折に発見したとされるお湯、そのとき座った石を「御座の石」、湧き出る温泉を「御座の湯」と呼ぶようになり、その後草津の共同浴場五湯のなかでもこの「御座の湯」は、ハンセン病に効きめがあるといわれたようである。
1869年、草津大火のあとの復興時に発行された「草津温泉誌」にハンセン病に効果があると記され、同時期に東京帝大のベルツ博士の論文に強酸性の草津のお湯の効果が書かれたことにより多くのハンセン病の患者さん
が草津を目指すこととなった。
湯畑前の「御座の湯」は後に「白旗の湯」と改名され、現在は共同浴場として地元民以外にも開放されている。
この連休中は観光客が並んでいた。
「御座の湯」と称されるお湯はかつてもう1カ所あった。
これは湯畑よりかなり下の、草が茂る荒れ地にわいていたお湯で、一種の隔離政策により以前の「御座の湯」に入れなくなった患者さんたちの強い直訴によって、この荒れ地にわき出る温泉が代わりに与えられ、ここも患者さんたちにより「御座の湯」と称された。
その後の草津の歴史は今日に至るまで、様々な意味で苦悩に満ちたものがある。
それは宿にとってもいえることではないだろうか。
湯之澤区という荒れ地のこの地区には、昭和初期には草津の人口の3割以上の人々が生活するようになっていたという。
この地区のお湯は現在「大滝之湯」という名称に変わり広大な日帰り入浴施設となって、この連休中は駐車場に入りきれない車が長い列をなしていた。
本日の夕食、地元&別荘族御用達割烹「喜紫(きむら)」。
5,000円コース。
若女将が「どうぞ」と言って、山盛りのキャベツの浅漬けを持ってきてくれた。
嬬恋キャベツのおいしいこと! こういうサービスって嬉し~い!
あ~~~ うまかった~~~
おいしいものをいただいた後の、おなかだけでなく、精神的にも満ち足りた思いに溢れて、しあわせ!
湯畑の湯。
やや広めの脱衣所。
熱めで、キュッとなり、ああ、やっぱり草津のお湯だ…
と思った直後、掻きむしったあちこちの傷がヒリーーッとなった。
きゃあああ…
綿の湯のphは2、湯畑の湯のphは2.1である。わずかに酸性度が違うが、むしろお湯の質の違いに起因するのだろう。
このヒリヒリ感は半端ではなく、じっとじっと…… 我慢。
そうしているうちに、なにかこう…
再生しようとする自分の体と、それを促進させてくれるお湯との共同作業が、いま私の中で行われているのだ……
熱さと刺激と心地よさのなかで、そんな思いがわいてくるのだった。
湯治のとば口に、私はいるのだ。
昨夜は大変冷えて、ストーブがありがたかった。
よく晴れた朝、西の河原公園を散歩。冷たい爽やかな風と、痛いほどの日差し。
木々の緑と立ち上る湯気に、心休まる。
こんな風景の中に立つこと…
私たちになくてはならない時間である。
昨日、下り坂でキシキシいっていた膝が、らくになっていた。
まちこも「腕が昨日より動くよ」
ひと休みののち、白旗の湯と若の湯に入りたくて、草津館に。
フロントには誰もおらず
「こんにちは~ お風呂いただけますか~」と声をかけると、奥から女将さんが。
「いまだれもいませんので、ごゆっくり」 800円払いながら
「たぬきちゃんは元気ですか?」
「今年の4月に… 朝起きないので見てみたら… 大往生です。18歳。」
「ああ… でもここで暮らせて、幸せな一生だったですね」
私はあのとき、いったん宿を出てからFAXを借りにまた戻ってきたのだが、
フロントの奥に目をやると、たぬきちゃんは座布団の上に横になってこちらをじっと見ていた。
「このこにまた会うことがあるだろうか…」そんなことを思ったのだ。
そしてフワフワとした毛のかたまりの小さな姿を、懐かしく思い出した。
風呂場の戸を開けると、ここもまた懐かしさが蘇る光景であった。
白旗の湯は惜しげもなく溢れ…
白濁したかなり熱いお湯にクッと入れる喜びを味わい…
湯もみ板のある眺めも変わっていなかった。
前回の若の湯は湯の花もなく透明で、黄色みを帯びたいへん熱く、
そのシャープネスな感じのあまり入ることを躊躇するほど気品のあるお湯だった。
今日の若の湯は湯の花で白く濁り、ぬるめで、とても柔らかで優しかった。
時事刻々お湯は変化し、同じではないにもかかわらず、しかしこれはまぎれもなく若の湯で、
いまこの時、この若の湯に入れることは、私の喜びであった。
その威力は、まちこもわかったようで
「すごいねえ。私、また来るわ。近いし」
朝は温泉饅頭1個で済ませた私たちは、お昼は「アル・ロドデンドーロ」のランチを予約。
湯畑から歩くこと10分ほど。この辺の風景は軽井沢に近い。
2,500円のコース。
テーブルに置かれたグリッシーニをポリポリとかじると香ばしく、ジンジャーの香りがする。素敵ランチの幕開け。
岩塩の付いたフォカッチャ、そして豚の背脂に香草を入れたものをフスマ入りの温かなパンに付けていただく。
パンの耳はとりわけおいしく、小麦の味わいを噛みしめる。
しみじみと、喜びと充実感に満ちて、体にも心にもいい料理を、気持ちよい空間でいただけたことに感謝。
日進館の前を通って帰る。
明治期に草津を目指してきた大勢のハンセン病の患者さんたち、それ以外にも、特に皮膚に疾患のある人たちは当然温泉宿に逗留したわけで、そして「御座の湯」を目指したわけで、草津の温泉旅館は常にコインの両面のような状況を背負ってきたのである。
かたや一般の温泉客、かたや医者に見放され、命のお湯、まさに霊泉を求めてやって来る患者さんたち。
彼らは人目につかぬようひっそりと裏口から出入りし、夜中にお風呂に行ったという。
「裏壺の客」 …… こんな言葉があったらしい。
裏(裏口から)壺(部屋に入る)の客…
死語になっていてほしいと思う。
私は草津の宿で夕食をとったのち、夜の草津の温泉街を散歩することがあった。
人通りもまばらな本通りからちょっと路地に入ると街灯の数も減り、
草津らしい町並みの細い道の両側から小さな宿の明かりがもれ、時折かすかに温泉臭が漂う、そんな道を心楽しく歩いた。
その日の夜も裏通りを歩いていたら、向こうから来る2人連れが街灯からはずれたところで立ち止まったのだ。
道は細いとはいえすれ違えないほどではなく、なぜ立ち止まったのだろうと思った。
たぶん母と息子であろうか。
母は息子をかばって彼の前に立ち、私からの視線を遮ろうとしたのだろうが、息子はもはや母がかばえる以上に成長していて、一瞬会釈して脇を通り過ぎた私の目にもはっきりと彼の皮膚の深刻な疾患が分かった。
ああ…… 私はとても後悔した。
こんな時間に裏道を歩いている観光客など、いないのだ。
昼間はおそらく出歩くこともせず、光を浴びて湯畑を眺めることもせず、唯一人通りの途絶えた夜の裏通りをひっそりと歩くこと、それさえも私が犯してしまったような気がして、たいへん申しわけなかった。
彼らが傷ついたのではないかと思うと、自分の浅はかさに腹が立った。
明治期以前にも、草津の宿はずっと抱えていたことがあるのだ。
江戸時代、湯治客が願いかなわずこの地で亡くなったとき、
宿は早馬や飛脚を雇って家族に知らせたそうである。
今と違って身内が来ようにも時間がかかる。
なきがらは身内の人が分かるように、塩で漬けて保存されたそうである。
それでも分からなかったときには、無縁仏として供養され、この地に埋葬されたそうである。
その寺は湯畑のすぐ上にあり、その碑はいまでも残っている。
地蔵の湯の共同浴場は新しく作り直され、夜も賑わっていた。
高砂館。本日は満室で忙しいことだろう。
車は細い道を埋め尽くし、この時間も大渋滞。
セブン-イレブンの弁当は売り切れ、お握りやサンドイッチも売り切れ…
まあ、お昼が充実していたから私たちはあまりおなかもすいていない。
だから不足分のタンパク質補充で十分の夕食。
まちこは「焼き鶏とビール、久しぶりでおいし~い!」 「あ~ よかったね~!」
草津には無料の共同浴場がたくさんあり、白旗の湯や千代の湯などは行列ができていた。
私はいつでも宿のお湯で手いっぱいで入ったことはないが、1カ所だけ入りたいと思っていたお湯がある。
「凪の湯」という、詩のような美しい響きのお風呂である。
その「凪の湯」の目と鼻の先、歩いて10秒もかからない宿に泊まったのも何かのご縁だと思い、夕食後行ってみることにした。
きれいに保たれた脱衣所。地元の方らしい人が2人入っていた。
「こんばんは、おじゃまします」と言いながら入る。
まちこと4人で入ると、膝をかかえてやっとの、小さな木造りの風呂場。
管を湯船の中まで入れているので豊富なお湯が下から押し寄せる。
透明で湯の花がない、熱いお湯だった。
西の河原の湯、あるいは万代鉱かもしれないがそこまで酸性度は強くないような気もする。定かではない。
あまりに熱いので風呂から出て、1人になった風呂場で水でうめようかどうしようかと迷った。
隣の男湯からは盛大に水でうめる音が聞こえる。
溢れて排水溝に流れ込んでいくお湯を、しばらく見つめていた。
もはや肌は乾き湯上がりの気分を感じた私は、お湯に頭を下げて脱衣所に出た。
「凪の湯」の名前のような時間を過ごすために、
いつかひっそりと夜中にお湯をいただきに来るのもいいかもしれない、と思いながら。
湯治、という明確な意識を持って入ると、いままで分からなかったかったものが分かり、見え、
どれほどのものを与えてくれるお湯であるかが、まざまざと皮膚に感じられる草津のお湯であった。
帰る日の朝、綿の湯から上がって風呂場の湯船をやはり見つめた。
おのずと頭が下がる。
「ありがとうございました」 綿の湯に、いや草津のお湯に、そして草津に。
戸を閉めた。
かつての歴史の上に草津はあり、時間とともに変化し、そして未来に向かってはいま以上に変化してほしいと思う。
あの母と息子のような人々が青空のもと、笑いながら湯畑を眺め、観光客はそのそばで笑いながら饅頭を食べ、世間話をし、治療の話をし、共にお湯のありがたさを感じる、そんな光景を……
私は生きている間に、草津で目にしたいと思うのである。
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