theoria(テオーリア) まるみの 湯気の向こうに 見えるものを心の眼差しで観想する 小さな旅へのいざない

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時空の旅 5

ラブホな人々

山窩小説家といわれた三角寛が戦後の焼け野原の池袋に「人生坐」という映画館を開館させたのは昭和23年(1948年)だったという。
その後昭和30年に「文芸坐」をオープンさせた。

私の中学生時代には「人生坐」は2本立ての名画座となっていた。
私の家がある浅草からバスに乗って池袋の東口までやってきて、
「人生坐」に入り、その座席が、跳ね上げ式のクッションのない固い木の椅子だったのに驚いた記憶がある。

「人生坐」は昭和43年になくなったが、「文芸坐」は建物の形を変えて今も「新文芸坐」として以前と同じ場所でパチンコ屋と一緒のビルの中にある。



ラブホな人々

三角寛の山窩研究は、かなり信憑性が薄いというのが現在の定説のようで、三角寛はその小説も含めてほとんど忘れられた存在となった。
しかし三角寛の名前は知らなくとも、池袋のこの2館の映画館に関しては青春の思い出を持つ人が多いのではなかろうか。



ラブホな人々

都市はあっという間に変化する。
そしてたくさんの事件もあっという間に忘れる。

東急ハンズの前を駆け抜けながら、見ず知らずの人たちを刃物で殺傷した青年の裁判が最近あった。

そう、あのときこの通りが血だらけになったのである。



ラブホな人々

この広大な空き地に建っていた建物を思い出そうとしても…



ラブホな人々

……思い出せない。









時空の旅 6

ラブホな人々

豊島清掃工場は、1999年に稼働しだした。

着工したときには私は大塚に住んでいて、かなたにどんどんと高くなっていく塔を見て、いったい何が建つんだろう?といぶかしく思った。

やがてそれがゴミの焼却のためのタワーだと知った。

2008年時点で、豊島区の総人口は26万人を超えている。
いまや26万人以上の人々が、毎日確実にゴミを生産しているのだ。

東京にはあちこちにゴミの焼却タワーがあり、私自身渋谷区や港区、杉並区などで目にしたことがある。


他の施設のタワーはあまり話題にならないが、この豊島清掃工場のタワーは
<屹立するバベルの塔>などという、月並み、凡庸な表現をされたりする。



ラブホな人々

その印象は豊島清掃工場の立地条件、街なかの線路際、ということが寄与していると思われる。

初めて池袋駅に来た人が駅北口の階段を上がり、地上に出る瞬間に顔を上げると、この塔はかなり近い距離の真正面に目に入る。

清掃工場はおおむね住宅密集地には造られず、車で走っていて目にしたり電車の中から遠目に見たりと、横移動の視線となるが、豊島清掃工場は立地条件上、常に下から見上げる視線で見られるための存在感があり、その意味では大変ユニークなゴミ焼却タワーである。

私は周辺を散歩していてどこにいるか分からなくなるとこのタワーを探す。
この塔のほぼ下が我が家であるから。




ラブホな人々

この清掃工場は区立のものではない。
東京二十三区清掃一部事務組合、というところの所轄である。
これは2つ以上の地方公共団体が、その事務の一部を共同処理するために設ける特別地方公共団体なんだって。
東京二十三区の、区の寄り合い所帯ね。
ゆえに23区あちこちに同じような焼却タワーがある。

これらは高温で高性能の炉であるから、効率を考えなければある意味で何でも燃える。
かつ煙りも少なく、ダイオキシンも出ない。
いってみれば分別廃棄無用、ということであるが、エコエコブーム、この期に及んで分別なしでは身も蓋もないので、豊島区はせっせと分別を呼びかけて実行している。

豊島清掃事務所のゴミ焼却炉は、石川島播磨重工製の全連続燃焼式流動床焼却炉で、
日に400トンの燃焼が可能、7,800kWの発電、それに伴う高温水は下の<健康プラザ豊島>で循環使用されているらしい。
<健康プラザ豊島>の前は通ったことがあるが、いまだ入っていないので、そのうち見てこようと思っている。

私は学生の頃、ゴミ問題に興味を持った。

私が子供の頃は、町内の路上にコールタールで黒く塗られた蓋の付いた木箱のゴミ箱があって、各家庭で出たゴミをそこに入れておき、それを業者か行政が回収する、というゴミ処理方法だった。
そもそも家庭ゴミはあまり出なかったのである。

豆腐を買うときは鍋を持って豆腐屋に行き、八百屋の買い物はそのまま買い物かごに入れ、魚屋では新聞紙にくるんで入れ、お総菜は経木に入れ、たまのお中元の包装紙は裏をメモに使ったりその紙で違うものを包むために綺麗に折りたたんでしまっておき、紐がかかっていればそれもクルクル丸めてとっておき、食べ終わったサンマの骨は猫にやり、猫が残した骨は小さな庭のイチジクの根元なんかに穴を掘って埋めていたから。

やがて…
ふと気が付いたときには、黒い木箱は町内から消え去り、車が回ってゴミを収集しだした。
それと同時に、格段にゴミの量が増えていることに気付いた。
世は高度成長期。

<夢の島>ができる以前である。東京湾沿岸はゴミで地形が変わってきていた。
私はあれこれ調べていて、人類はいったいどうなるんだろう?という、お先真っ暗感に襲われた。
人類は自ら作ったゴミとの闘いになるであろうことを、その時ひしひしと感じたのであった。

東京湾のゴミの山はやがて埋め立てられ<夢の島>という名の公園となったが、当時まだ産業廃棄物問題や公害問題意識が希薄だったから、その下のゴミの中はどうなっていることやら。



ラブホな人々


今回の東北沖地震で、瓦礫の山と化した我が家の跡、汚泥にまみれ足場も悪く、その中で見つけることも困難な思い出の品を必死に探しておられる被災者の方たちの、痛々しく切ない映像をたいへん多く見た。

何百年もかけて開墾し、整備し、建設し、それぞれが家を建て家庭を築き、写真を撮り、入学し、卒業し、生まれ、死んでいき、そしてまた新たに生まれ… 思い出の品が増えていき…

そしていま、なんという瓦礫とゴミの山が残ったことか。
被災地のゴミ問題は、今後数年かかるといわれているが、映像を見る限りとても数年のスパンでは追いつかぬように思える。




人間は何を作り、そして何を残していくのか。
人間が本当に残すべきものは、何なのか。

<ゴミ>でないもの 真の<ゴミ>でないものとは… いったい何なのだろう?


私はこのゴミ焼却タワーを見上げながら、このところずっと自問し続けている。










時空の旅 7

ラブホな人々








うちのすぐ近く、ラブホ街のはずれに<池袋の森>という小さな公園があるのだが。


ラブホな人々

ちょっと不思議な造りで、そもそも公園として造られたものではないことがすぐに分かる。
手前の家のかなり広い庭と地続きなのだ。
その平屋のお宅にも大木が茂り、そもそもこのお宅の敷地だったことが伺える。



ラブホな人々

ブクロに引越ししてすぐに大家に
「あの<池袋の森>って、もとは何だったのですか?」と聞いたら
「ああ、手前の家、東大の先生だったそうですが、その土地を、税金対策でしょうね、
豊島区に物納して、豊島区が公園にして管理してるんですよ」とのことであった。






ラブホな人々

1997年に開園したこの小さな公園の中は、おそらくこういう風景が武蔵野の大地に広がっていたと思われる情景がある。

東大の先生だった方は、島田錦蔵というお名前で、林学がご専門だったようである。
調べてみると、江戸幕府の林業に関する研究や、戦後の林業のご研究をされていたらしい。
昭和30年代、40年代辺りの高度成長期における日本の林業に貢献されたのであろう。

いまこそ日本の荒廃した林業を立て直すために、先生のご研究を活かしてほしいと思う。
手入れされていないスギ林と、真っ黄色に飛散するスギ花粉、花粉症で猫も杓子もマスクをして歩く姿を、先生はお墓の下でどんな思いでご覧になっていらっしゃることか。



ラブホな人々

先生が植えられた外来種ユリノキ、チーリップツリーはいまや大木となり、夏には<池袋の森>に大きな木陰を作っている。

多分ご自宅の庭に造られた池は今は<トンボ池>と称され、時々東大から先生らしき人が訪れて調査をしたりしている。
そういえば秋になるとトンボの大群が私のマンションの窓から見えることがあった。



ラブホな人々

私が2008年に撮った写真を見ると、この池には水面を真っ黒にするほどのオタマジャクシが出現していたのだが、カエルの鳴き声を聞いたのは一度だけ、それも1匹のかすかな声であった。

不思議~




ラブホな人々

そう思っていたらある時池さらいが行われ、
この小さな池で捕獲されたアメリカザリガニ大小取り混ぜてなんと600匹。
彼らは土にもぐり込むので、池底と側面は全面的にコンクリートで覆われた。

その後もカエルの鳴き声は聞かないが、この辺を夜歩いていてヒキガエルを踏んづけそうになったことがある。




ラブホな人々

ここはブクロで土の上を歩ける、そして木々のもとで深呼吸できる、貴重な場所である。
豊島区は小さな小屋も建てて、そこにはボランティアさんが常駐している。

税金関係の支払いの時期になると
「区民税高いー!都民税高いー!保険料高いー!介護保険料もっと高いー!貧乏人からむしりとるな~!」と怒りにうち震えるが、
豊島区は、あの<池袋の森>を造り管理しているのだ。と思うと気持ちが鎮まり、
政治家のように粛々とそれらを払うのであった。




ラブホな人々

それからしばらくして、<森>ではなくご自宅の大木がある時次々になぎ倒され、
根が掘り返され、
あっという間に半分更地になってしまった。

やがて<森>を借景にできる建売住宅2棟が建築されて

嗚呼…… またも相続税で敷地を半分売られたようであった。




ラブホな人々

数十年成長ししっかりと根が張っていた貴重な木々は、重機で引きはがされていった。

夜は塀から伸びる枝で黒々と染まった影の中に、いまどき珍しい人が立っていたものだ。
1人はかなり年だと思える濃い化粧の女性で、もう1人は肩まで伸びた髪を茶色に染めて内巻きにクルッとカールさせて、スカートをはいた細い男の子だった。というのは失礼かも、本人は女の子と思っているのでしょう。
終戦直後の、映画のような風景で、なんかこう…… 
なんというか、感動でもないんだけど、えーっと……




ラブホな人々

そんなに時代錯誤的で生き残れるのか、という心配もあり。

が、だんだん見慣れてきてそのうち挨拶する仲になるかも、と思っていた矢先だった。
2棟の新築住宅の前で客引きはできず、いつのまにか消えてしまったが。

どこかで幸せに暮らしていてほしいものだ。




ラブホな人々

そして今冬、このお宅の前を通ってスカスカになっていたので仰天した。




ラブホな人々

えーーーっ!!!  

春になると紫色の花が道にたくさん落ちている、そう、桐の大木がスッパリ切られ、
付近に植えてあった山桜の一種の華奢な木も、その近辺の木々はすべてなくなり何だかとても寒々しくなっていた。


ラブホな人々








人知れず私は涙した。

あの桐は嫁入り道具の桐たんすにはなれぬ運命だったのだ。きっと。

切られたあの木はいったいどこにいったことやら。




ラブホな人々

できれば、材木問屋で十分に乾かして、違うものに生まれ変わってほしいと思った。



ラブホな人々


私は今年の税金の支払いの時にも

「豊島区は<池袋の森>を存続させているんだから」と思いながら、
払うことだろう。






                         ■ ■ ■ ■ ■ ■





ラブホな人々

あのお宅は桐の木を、なんであんな半端なところで切ったのかしら?
切ったあとも抜かないでそのままだったが。

ラブホな人々

急に暖かくなって、そのわけが分かった。

ラブホな人々

屋根よりやや低い位置で切りっぱなしにしたわけが。

ラブホな人々

本当に私は、植物のことを知らないのだということを実感する。
島田先生のご子孫は、こうやって桐の木と共に生きることをご存じのようである。



ラブホな人々

今年も<池袋の森>にオタマジャクシがたくさん泳ぐ季節となった。

ラブホな人々




ラブホな人々

枝打ちされて棒のようだった木々にも生命のきざはしが現れた。


ラブホな人々

耳が皮膚病だった猫も、治って毛がはえてきていた。

ラブホな人々


ラブホな人々

島田先生、今年もユリノキは緑が茂りだしましたよ。





ラブホな人々


巡り来る、しかしけして同じではない、新たな、命のもえいずる季節。

そして私も一つ年をとった。










あらまっ!!

ラブホな人々



まあ~~~!!

ラブホな人々



すごいすごいー!!

ラブホな人々



そして、違う種と共に生きている喜び。





















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