吾妻線岩島駅から松の湯温泉・松渓館 川原湯温泉駅を巡る旅
眠っていた猫が目を覚まし、あくびをし、起き上がり体をブルブルッとさせたあと、
前足を伸ばしぐうっと力を入れると背中がきれいな曲線を描き、そして力を抜き、
後ろ足を揃えこれまたぐうっと伸ばしてから、座る。
一瞬静謐感が漂う。エジプトの焼き物のように見える。
あんなふうに日常の埃を払い落とすために、いや、
小刻みに体を震わせる動作のあとの、しなやかに伸びる筋肉がそこにあり機能しているのが分かる快感。
私が旅に出るのは、そういう快感を求めてのことなのかもしれない。
私にしなやかに伸びてくれる筋肉がまだあれば、の話ではあるが。
吾妻線の岩島駅という無人駅を午後2時前に降り、照りつける日差しの中、私は松の湯温泉松渓館に向かって国道を歩き出した。
トラックが激しく行き交う。
歩道には歩く人影は見当たらず、道の脇の家々も人の気配を感じさせない、空気も蒸れて息苦しく暑い日だった。
松の湯温泉の松渓館は岩島駅と川原湯温泉駅のほぼ中間、
川中温泉に向かう山道の途中にある、33℃の豊富な源泉を持つ1日2組しか泊まれない小さな宿である。
電話して女将さんに確認すると、
「岩島駅から歩いて40分弱、川原湯温泉駅からはもう少しですね、50分はかからないと思いますが」
車以外の交通手段はない。
歩くか、タクシーを使う場合は長野原草津口から呼ぶしかないのだ。
山々の稜線を背景に、下から見上げる巨大で長大な道路は、その橋脚も含めて、見方によっては機能的で美しい。
背の高い夏草の向こうに思い出したように吾妻線の列車が通り過ぎていった。
去年の震災、そして福島原発事故。
その後のどさくさでほとんど報道はされないが、八ッ場ダム工事は着々と進行しているのだろう。
行きに岩島駅から宿まで歩き、帰りは宿から川原湯温泉駅まで歩くと、ダムに沈む部分も幾分は把握できるに違いない。
その現場の<いま>を、私は自分の目で見ておきたかった。
交差した道路の車の渋滞を横目に、道なりに踏切を渡り工事中の道のできるだけ端のほうを歩き続けた。
交通整理のおじさんが、「こんにちは」と声をかけてくれた。
「こんにちは」と返し、その後も工場中の現場を通り過ぎて
この炎天下に長袖、ヘルメット姿で旗を持って立っているお嬢さんに会釈してひたすら歩く。
遮るものが皆無のアスファルトの上は照り返しが強く、次第に登り坂となる道を歩くのはつらいものがあった。
傍の電光掲示板に34℃と表示がある。
汗が止めどなく流れ落ち、この坂をいったいいつまで登るのであろうか。
この道を歩いていることに何か違和感を覚えたが、
あまりの暑さと消耗で思考能力がなくなり、
そのうちにこのままだと熱中症間違いなし、という恐怖感が忍び寄ってくる。
ここで救急車を呼ぶ羽目になるのはあまりにみっともない。
自己責任でなんとかせねば……
いよいよになったら背後から走ってくる車を止めて、2~3分乗せてもらおう、
などと心細く考えた。
道路の縁はとても塀とは呼べない低さ、私の膝あたりか。
よろめいたら即数十メートル落下の危険があるので、できるだけ端から離れて歩く。
やっと道は平坦になり、その時俯瞰するとかなたに家々と道路が見えた。
ああ、あそこには日常があるはずだ。
それに比べて私はいま、何かただならぬところに立っている。
痛いような日差しの中を背後から無機質に走り去っていく車。
その音。
たった一人、地上からそそり立つ道路の脇で遥か下方を見ている自分の姿。
熱のこもった皮膚。
したたる汗。
スマホのGPSで確認すると、目の前に見えるトンネルの向こうはまだ道路ができていないことがわかった。
残り少なくなったペットボトルの水を飲み干し、宿に電話をした。
女将さんが電話に出たので今居る位置を説明すると
「その道は最近できた道で通れるのは車だけです。人は歩けませんよ、歩いたんですか?!
そこを下に降りてすぐなんですが」
たいへん驚いた声でそう言われた。
大きく二重の螺旋を描く形で道路は下っていき、
木々が生い茂る細い道に入った時には心底ホッとしたのであった。
どうやら私は、
期せずして八ッ場ダム建設に付随する工事の最前線、
たいへんドラスティックな現状の一部分を、
工事関係者以外歩いて目にすることができたようである。
熱中症寸前の、貴重な体験であった。
小さな集落を見た時には、さきほどの混乱と焦燥感を思い出し、そのあまりに平和な光景に溜め息がもれた。
女将さんが二階の玄関から声をかけてくれた。
心配して待っていてくださったようだ。
「よく歩けましたね、車しか通っていなかったでしょ?止められませんでしか? 最近道がどんどん変わってしまうので、ここに来る道順の説明も難しくなりました」
汗まみれの私のために扇風機をつけてくれた。
挨拶してくれた交通整理のおじさん、何も言わなかった工事中の人々、会釈してくれたお嬢さん、あの道を進む私を誰も制止しなかった。
とても不思議だったが、もしかすると私が肩から提げていたカメラが、車道を歩くことの暗黙の許可証となったのかもしれないとあとで気づいた。
私はなぜ写真を撮るのであろう。
答えは出ない。これから考えていこうと思う。
貸し切りで入る33℃のお湯は心地よく、ヒグラシのカナカナカナ という声と溢れ流れていくお湯の音とを聞きながら、とんでもなく大変だったウオーキングのご褒美のような時間となった。
体を冷やすお湯でないので上がったあとじんわりとした体温の上昇があり、
体を拭くタオルと皮膚との間にすべすべ感とは程遠いある摩擦が生じ、
ほのかな硫黄臭とともに、成分の濃さを感じさせるお湯であった。
自分自身の今までとは違うベクトルで、写真の<主体>に関わることを考えてみようと思う。
これまで私は、たいへん注意深くこの問題に関わることを避けてきたのだ。
あるいはできるだけ希薄な関与、それとわからぬくらいに通り過ぎていくような、
そういう状態を保ってきたつもりだったが、
この部分に正面から向き合ってみることにした。
<私>は<私の身体の一部>を写真に撮る。
撮ったのは<私>であり、撮られたのは<私の身体の一部>である。
部分は全体ではない。
主体は、写真を撮った<私>なのか、あるいは撮られた<私の身体の一部>なのか。
これを見ているあなたに問いたい。
これらの写真のイメージは、誰のものか?
不思議な静けさの夜だった。
それが奇妙な感じを抱かせた。
夜、開けてある窓の網戸越しに、山百合の香りが漂ってきた。
指に付くとなかなか落ちないあのレンガ色の花粉や、
粘性の高いめしべの先端の感触を思い出して、
芳香と感じながらも一瞬嫌悪感がよぎった。
快活で元気な女将さんによると、
あれらの道路ができてから
いままで吹いたことのないような方向から突風が吹き、
この宿の壁が落ちたという。
幸い怪我人は出なかったとのことであるが。
「昆虫がめっきりいなくなりましたね。夜は蛾がたくさん飛んで、
朝起きると玄関先にチリトリいっぱいになるくらい死骸があってお客さんが悲鳴をあげたりしたんですが。
全然いなくなりました」
ああ、夜の奇妙な静けさは、それだったんだ、とその時気づいた。
昆虫の気配が皆無だったのである。
女将さんの話から、環境が大きく変化したことが窺えた。
「お湯も変わってしまうかもしれません。毎年必ず質や量を調べておくようにって人から言われますけど。
でも道路ができて色々変わってしまったと訴えたって取り上げてもらえないでしょ?
そして私も主人も60代ですもの、この先宿をいつまで続けられることやら」
この辺はダムに沈む地域である。
50年後、100年後の人々がダムを見て
「ああ、昔の人は本当にいいダムを造ってくれたね。ありがたいことだ。
保全に莫大なお金がかかるけれど、これを造ってもらって良かったね」
と、言ってくれるのだろうか?
これまた50年後、100年後にダムの縁に立てる人間が存在すれば、の話であるが。
丸い石を一つずつ手で積む。
手を使い腰をすえて足をふんばり、肉体を使う労働の集大成のような石積み。
たとえばそんな労働を地道にこなし、汗をかき、一日の終わりの安酒の晩酌で家族に笑顔を見せ
毎年の先祖の墓参りも欠かさず
やり繰りして真面目に税金を国に収め、高い保険料を払い、
自分では受けられなかった教育を息子や娘には与えてやりたいと望み、少しでもいい学校に通わせるためにと愚痴も言わずまた働く。
欲張らず小さな幸せで満足する市井の人々によってこの国がここまで栄えてきたのだ。
そんな人々が国によってある日突然そこから出ていけと言われる。
未来に向けて本当に必要なものを造るための真摯な説得がそこにあったのだろうか。
原発事故直後の福島では、突然そこから逃げろと言われる。
逃げた先の避難所の周辺では白い服を着て顔を覆いマスクを被りいっさい口をきかない人が2~3人、
何か機械を使って調べていて、そしてすぐいなくなったが。
「あれは何なのだろう?」と避難所の人々が話す。
被爆量の高い地域に逃げてきたことを知らされる。
ずっとあとになって。
あるいは当たり前に普通の生活をしていた人々が、得体のしれない病に罹る。
水俣病しかり、カネミ油症しかり、最近はほとんど報道されることのない森永ヒ素ミルクの患者さんしかり。
そして救済とは名ばかりの、如何に足切りするかが目的の裁判に、長い間翻弄される。
それらの人たちは運が悪かったということであろうか。
否。
この国では、いつでも、また誰の身にも降りかかることなのだ。
私がひと気のない川原湯温泉駅の待合室に入ると、ベンチには年配の女性が一人座っていた。
草津行きの列車が到着すると、数人の老人たちが降り改札を通って行ったあとは、ひっそりと静かになった。
時刻表を見ていた老女はゆっくりとカートを引っ張りながら改札を抜け、向こうのホームへと階段を上っていく。
私も改札を通り、切符売り場の男性に話しかける。
「この駅はいつまで使われるのですか?」
「まだわからないんですよ。上の道路工事が終わってそれから新しい駅ができるので、あと1年、いや2年くらいでしょうかね」
「この駅が沈むと、寂しくなりますね」
新しい川原湯温泉駅の切符売り場に、この人の姿はあるのであろうか?
ホームに設置された待合室に入り
座っている先ほどの女性に声をかける。
「暑いですね」
川原湯にいる友人の家に滞在し、東京に帰るのだという。
写真を撮られせていただけますか?と聞くと、
この年代の女性によくあるように「あらまあ!ダメですよ!私の顔なんかシワだらけで」
と顔を手で覆ってしまった。
「では、後ろ姿を」
「あの代替地のほうから」
彼女は指差す。
駅の向こうに見える平らな小高い丘を。
「ちょっと前に土砂崩れが起きて、あそこの待合室まで土砂で埋まったそうですよ。
線路もふさがって吾妻線は1週間ほど不通になったそうですが。
いまはあの待合室もきれいになって。ようございましたね」
吾妻線1週間の不通など、事件や事故の相次ぐ都会のメインニュースにならない。
私は知らなかった。
どういう理由で土砂崩れがおこったのかも知らないが
かつて、この土地の土壌はダム建設に不適切だとの説もあったと記憶する。
「ここは宿ももう3軒しか営業してないそうですよ。さびれましたね。
代替地は高いからよそへ越す人が多いみたいです。
川原湯のお温は熱くていいお湯でした。代替地でボーリングして温泉を出したみたいですがね。
そこをまた川原湯って言うんでしょうかね」
「新しい温泉地として成り立つのかしら。何だか日本中で大きな変化がありますね」
列車が来る間、私たちはたわいない、しかし切ない話をした。
東京は今日も暑いだろう。
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