2013年8月10・11日 

灼熱の夏 峰







灼熱の夏 峰




峰に行っても、焦燥感の塊のようになっている

空気の清涼さは感じられ、夜の冷んやりした冷たい空気の気持ち良さも、焦る気持ちとは裏腹に、足の先に冷たさを感じるくらいの冷気が、かえってどうしたらいいのかわからないような思いであった。

ゆとりのなさはこんなにも自分の感性に影響するものか。

今まで感じていた、あるいは時々で感じ取っていることが、いかに多彩で生き生きとしていたかと思うと、この閉塞感はいかんともし難く、鬱々としてしまうのである。

この夏の猛暑、酷暑で、極度の貧血からくる脱力感と疲労感、当たり前に歩いて階段を登ることができなくなり、目の前が真っ暗になり突然道路で倒れるかもしれない恐怖感と闘いながら、いや、しかし、生死の問題ではない、たかが貧血ではないか、そのうち治るはずのものだ、と、おおらかにかんがえようとするのだが、現実は厳しく、恐怖感は大きい。

こんな思いは久しぶりで、いままでがなんと明るく大らかであったかと、ふさぎこむ気持ちを奮い立たせて、それでもこんなふうにではあるが、生きているのだと、しっかりせねば、いままで幾多の困難も乗り越えたではないか。


そう自分に言い聞かせ言い聞かしながら、カタツムリのように僅かに時間が進むのを、秒針を見つめながらどこか歯を食いしばるように耐えている。

外に出て当たり前に動けないのであるなら、じっとしているほかはなく、
本も読めず、音楽も聞きたくない、そのストレスたるや絶大である。


これを書くことが私の解放になろうか?

いや、解放にはならずとも、時間つぶしにはなるだろう、そんな思いでキーボードを叩く。

いいのだ、それしかないのなら、それをすればいい。
それがいま唯一のできることだ。
叫び出したくなるような気持ちを落ち着かせ、こうやっていきているんだ、こうやって生きて行くんだ、と、深呼吸してみる。

これがあるのなら、頼ればいい、文字を打つことを恥じずに。
この延長に、きっと何か浮かび上がってくるものがあるに違いないのだ。

むしろ、あまりないような、こんな思いを書き綴ることの意味を、考えようと思った。

いままで気にしていなかった健康への不安、生活の不安、年齢の不安、そんなことが一気に押し寄せてきているのだ。
逆らっても仕方が無い、流れに任せ、どんなふうに流れて行くのかを、自分でしっかりと見届けること。流れに逆らえるほど強い人間じゃない、私は。
とことん、自分の弱さと向き合うこと、それしかできないのだから。
見つめて、向き合って、ダメな私をそのまま受け入れ、そして前に進もう。
それができるなら。それしかないのではないだろうか。

そんな弱さをさらけ出すことの意味も考えたりするが、所詮、人間は何かに頼って、あるいは何か希望を持って、生きていくものだから、恥ずかしげもなく、自分のサイトに苦痛の痕跡を記すことを、ためらわないことにしたのだ。

いまやれることをやるしかないのだ。所詮、ちっぽけな生き物なのだから。私は。

大勢の人に支えられ、ときにありがとうと言ってもらい、ときに感謝され、そしてどれほど私がそんなことに感謝しているかを感じながら、いま息をしている。

このことの意味がどんなに大きいか、時に忘れてしまっていることに気づく。
人々の日々のつながりの中で、そのことの大きさに気づく。
無為に流れる時間を何とか食い止めようと、必死で考え、何かできることはないかと叫び出したくなるような気持ちをなだめ、心臓の鼓動の大きさをやけに感じて、こんなみっともない、無駄な時間を過ごすことを恥と思うことを、やめよう。



これしかできないのなら、仕方ないではないか。
七転八倒して苦しみ、のっぺらぼうの感性になってしまったことも、それもまた自分であるなら、ありのままに書くしかないではないか。















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