2013年9月21日 

回復期 峰











峰に着いたときに、ひっそりと椅子に座り、静けさと涼しさの中に身をおき、
ああ、ここにやっと来られた、と、嬉しかった。

嵐のような日々が去り、体も心も回復しつつあり、当たり前にいつものように峰に行く。
何の困難もなかったはずだ。

新幹線やバスに乗るのを、いちいちためらったりはしない。

何も考えずにいつもやっていることだもの。

だが今回は違った。
なんでもないことよ、どこが不安なの?と思っていると同時に、
無事にたどり着けず、どこかで倒れたらどうしよう、
何かにパニックになったらどうしよう、という恐怖が心の片隅にあった。

それは時として、黒雲のように、心の全体を覆うようなかんじになったりもし、
峰の庭を眺めながら、この場所のこの椅子に腰を下ろしていることが当然でありながら、
どこか奇跡のようでもあり、安堵のため息が出た。

いずれにしても、ここに来ることができたのだ。

大げさに言えば、ああ…… あの暑さと孤独と苦痛を乗り切り、
そして…… 生きている、という感慨である。

まだ時々めまいがし、右耳はよく聞こえず、歩く時によろめいて不安を感じ
叫び出したりしないだろうな、などとは思うが、
いまいるところは、峰のこの静けさに満ちた部屋だと思うと、なんともありがたかった。

時系列の記憶は全くなく、覚えているのは、クリニック目指してよろめきながら日傘をさすその傘の重さ、
とにかく何か食料を買うために医者の帰りに手近のコンビニで、パンの棚から確認もしないでかごに放り込み、帰ってから横になって水で流し込んで食べたこと。
一体そのパンがなんだったのかさえも記憶にない。

その後、突発性難聴で近所の医者に行くために、細い裏道をまっすぐに歩けず、
ラブホのスチールの壁に手を添わせて恐る恐る歩き、そのスチールが日に焼けていて
痛いほど熱かった、手のひらの感覚。

あるいは多分それ以前だろう、クリニックの狭いベッドに横たわり、ぽたぽたと落ちてくる点滴の雫を見上げていったいいつ終わるのだろうといらだっている記憶。

1人だということの不安、不便。

いまそんなことが時間の海の中を漂っている。
後になって人と話している時に

「猫がいることが慰めになったのでは?」
と聞かれたが、
金があればペットシッターを雇い、私自身は清潔で涼しいビジネスホテルかなんかに泊まり、
ベルを押せば誰かすっ飛んできてくれて、
食事はルームサービス、薬の時間になると飲ませてくれる、
そんな環境であればどんなにラクであったことかと思う。

その時の私にできたことは、めまいがするので立って歩けず、這っていって猫のフードと水とを用意し、猫のトイレの掃除をし、
また這って自分のベッドに戻ることであった。

2匹の猫は私の状態などお構いなく、枕の周辺に集まり、
時に私の髪の毛の毛づくろいをし、弱々しく追い払う手をザラザラの舌で舐めてくれて、
ズブズブと人の体の上を通って足元に行き、
私の足を枕代わりにして寝ていた。

外は灼熱の日差し、カーテンを閉ざし、クーラーをつけっぱなしで締め切った部屋で、掃除もできず、洗濯もできず、ベッドに横たわり、何日も人と話さず、
迫ってくる天井を見上げて思わず両手を挙げて天井を支える動作をし、恐怖心をいかに乗り切るか、
格闘していたのだった。

           ここまで書いて、疲れてしまった。続きはまたにしよう。












温泉に入って、掛け湯をするとき、無意識にある緊張をしている。
お湯が体に流れ落ちた瞬間、あ、あつっ! であったり 
あ、わりとあつい! であったり、
うわっ ちょっとぬるい……など、お湯によって様々だが、
この峰のお湯にはその緊張感が皆無なのだった。

頭の中が空白になっていても手が機械的に動くと、
あえて心地良さを通り越して、自然極まる当たり前の、しかし恵みの極致のように、体の、皮膚の上をながれすべっていくそれは、
気がつけば稀有な事態である。


私が自分のサイトに
「湯気の向こうに」と名付けたのは、
その湯気の向こうに、未来でも過去でもなく、その揺らぎのある、いま、がなんであるのか、誰がいるのか、どう動いているのか、
何が起こっているのか、あるいは起こりつつあるのか、
それは私とどう関わりあい、私をどんな世界に連れていくのか、
それをこの目で見たい。感じたい。
そんな思いで名付けたのだった。

いま峰のお湯に心地よくつかり、やや不安を感じながらではあるが、そうできている自分にホッとして目をつぶって揺れている私には、
湯気の向こうの今を見つめる力は到底なく、
心の隅のほうでこの現実を受け入れなければならないことに、かすかにいや、かなり苛立ちを覚えていたのだった。

ともあれ日帰り入浴の5人の間で揺れていた私は、やがて彼らが上がってしまって、1人になってもまだしばらく目をつぶってひたすら流れるお湯に揺れた。
上がってひとやすみして、湯疲れすることもなく、誰もいない風呂場を独り占めしてまたお湯に揺れた。
夕食後も電気はつけず、窓を開け放って空を伺い、星を探し、目を閉じた。
お湯に揺れた。


清潔なシーツの肌触りを心地よく感じながら足を伸ばし、ふと気づいたことがあった。
この部屋は玄関に一番近い部屋で、玄関の壁にかかっている柱時計が鳴って時を告げる、
そのボーン、ボーンという音が壁の裏側から響いてきて、
この部屋に泊まると私にはその音がやや気になるのであったが、今回はなぜか音がしない。
壊れた? まさか。
あるいは柱時計の音を止めた?
いや、そんなことはあり得ないだろう。



11時が間近だった。
夜の静寂の中で、私は耳をそばだて、集中して待っていた。

その時、ごくかすかな音が聞こえてきた。
遠い小さな音ではあるが、まぎれもなく柱時計の音であった。

私の右耳の変化した聴力は、まともな左耳の聴力をしのぎ、前回は気になるくらいの音としてはっきりと捉えていたものが、
いまやそれが感じられないほどのものとなっていたのだった。



しかしこの部屋は、全然音を気にせず泊まれる部屋になったのだから、と、前向きに考えよう。

ほろ苦い思いだった。





闘っていくのか、あるいは流れに身を任せるか。

この先私はどんなふうに漂い、湯気の向こうを見ていくのだろうか。















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